【神戸訪問レポート➌】JR長田駅北側”細田・神楽まちづくり協議会”との交流

FullSizeRender1月17日ひょうご安全の日1.17のつどいに参加し、人と防災未来センター西館の5階、資料室で調査して、当時消防士を務めていた野村勝氏に合うためにJR永田駅に向かいました。

野村勝さんとは、平成25年9月の昭島市立瑞雲中学生徒との地域との合同防災訓練の際、講師として来ていただき、校庭での2500名の前と、その後中学生のみ体育館で2度、震災時の教訓と復興の講話をしていただいた方です。
image1 (2) 16時過ぎ野村さんと合流し、JR長田駅に向かい駅前広場では、“2017 ながた”の文字(左写真)をろうそくでの追悼の準備を多くの高校生も参加してしていました。
その後、永田駅北側の22年前の写真のパネルを見せていただきながら、1時間半説明をしていただきました。震災当日は水道管の損傷などで消火栓が使えない中での消火活動や、多くの人が生き埋めになっている現場での救助活動について話していただき、「火さえ消してくれとったら、家族は生きられたんや」罵声とともに、消防士nagata4の野村勝さんに向かって灰皿が飛んだ。背後の壁に当たり、床に転がったそうです。
公助には限界がある。住民の手で安全な街をつくっていかなければいけない」と訴えられました。

今回、被災地を歩かせていただく中で、ここまで変われるのかとの驚きと、地域住民の復興への心を一つにまとめた結果であったことも知りました。住民と行政の間に立って大変な労作業だったそうです。
震災当日、野村さんは垂水消防署の消防司令補として当直に就いていました。激しい揺れで机もテレビもひっくり返った。隊員に、出動態勢を命じた。「ガス漏れや」と6時前に住民が駆け込んできた。現場に急行し、最大音量で火を使わないよう叫び続けたそうです。
その時、消防無線は信じられない現実が伝えていたそうです。「塩屋町で倒壊家屋の下敷き」「長田、兵庫、須磨、灘、東灘で火災」「長田に応援に向かえ」-。神戸市長田区は火の海だった。放水しようにも消火栓の水が出ない。無線で応援を求めたが応答なし。「はよ消さんかい」「何とかして」。震災復興の碑市民の悲鳴が突き刺さる。防火水槽を求めて歩き回るが、その間も炎は街を焼き尽くしていった。二週間後の非番の日、長田の街を歩いた。菅原市場付近で、骨と思われる小さなかけらがあった。手を合わせることしかできなかった。
火災にどうすることもできず、多くの住民が亡くなった。「あの時こうしていれば」と何度も自問した。長田の現場が頭から離れず、眠れぬ夜が続いたそうです。
安心と安全の街の大切さを繰り返しながら「命を守るため、一人一人に考えてほしい」語るべきことは山ほどあるので、今も”語り部”を続けておられます。

nagata2野村さんは、震災後に立ち上げた「新長田北安心安全コミュニティ推進協議会」「細田・神楽まちづくり協議会」の会長も務めていて、13年かかった区画整理事業は完了し「今後は新旧住民の交流が課題だ」と語りながら、地域にあるせせらぎを紹介していただきました。火を消せなかった無念を忘れたことはないため、野村さんが設置を強く望んだものでした。
あの大火を前に何もできなかった自分に、これから何ができるのか。
あの日、消防士として全うできなかった職務を果たすためにいまも、各地で講演をされているそうです。この日も、小学校2校で子どもたちに話をされたそうです。